チューニング(3)
Live bar LEGENDは、立川駅から徒歩5分ほどの場所にある。
昼間は東大和市内で訪問介護の仕事をしている私にとって、仕事帰りに立ち寄るにはアクセスがいいということもあるが、何よりもマスターのマサさんやそこに集まってくる人たちが、私は好きだ。基本はアコースティックなハコではあるが、そうでなくてもロックバンドやDTMなど、とにかく様々なジャンルの音楽を愛する人たちがこのLEGENDには集まってくる。集まって何をするかは、行ってみてからのお楽しみだ。通常ライブの日もあれば、飛び入りライブの日もあり、バータイムだけどその場にいた人たちでセッションが始まる日もあれば、ただだらだらと飲みながら語り合う日もある。もともと出不精で人見知りな私でも、LEGENDに行けばその場の雰囲気の楽しさにすっかり溶け込んでしまうということに気付いてからは、完全にLEGENDの常連になってしまった。
その日も私は、仕事帰りにLEGENDに寄ったのだった。
古びたビルの中に入り地下への階段を降りていくと、扉の向こうから陽気な歌声が聞こえてくる。そして扉の前には「今日はオープンマイクデー♪」と書かれた看板が立っていた。オープンマイクとは、誰でもステージに上がってパフォーマンスができるイベントのことだ。自分が歌うのも楽しいけど、そこに集まる色んな人たちと交流するのが楽しくて病みつきになるのだ。
私は、何を歌おうかな、今日は誰がいるのかなとワクワクしながら扉を開けた。
「ユミちゃん!!」
「ひゃっ!!」
誰かが急に抱きついてきたと思って顔を覗き込むと、それはオープンマイクホストのアカリさんだった。
「来てくれてありがとう!待ってたわよ~!!」
アカリさんはいい人だけど、いつもテンションがバカ高いのでついていけない。
「ちょっとうるさいぞー!歌ってんだから!」
「あーごめんごめん!ユミちゃん来たからテンション上がっちゃったのよ、許して~!!」
ホストやのに何してんねん。私は思ったが、声には出さなかった。
「おお、ユミちゃん来たんか!どうぞ座って~、前の方が空いてるよ。今日のお通し食べ放題は、きんぴらごぼう!残念ながらユミちゃんの好きなラーメンは品切れですっ!」
ステージで演奏中だったギター弾き語りシンガーソングライターのカズキさんが、わざわざ歌を中断して言った。
いや、お前は歌えよ。私は思ったが、声には出さなかった。
私はカウンター席に腰かけて、マサさんに挨拶した。すると私の方を見たマサさんが、私に何やら目くばせをしたかと思えば、チラッと私の隣に視線をずらした。
私はふと、隣を見た。
そしてその瞬間、思わず身体が固まってしまった。
「あっ」
隣に座っていたのは、例の“チューニングをしない彼”だった。
彼はまるでワインでも堪能しているかのように、目をつぶってコーラを飲んでいた。
「ご、ご無沙汰しておりますっ!前回のライブではちゃんと挨拶できずにすみませんでした」
私はとっさにそう言って、頭を下げた。
彼は目をつぶったまま3秒沈黙した後、ふっと私の方に顔を向けて、まっすぐ目を見つめながらこう言った。
「残酷だね」
「へ…?」
「マサさんから話は聞いていたけど、想像以上に残酷だったよ」
私は最初、彼が何を言ってるのか全くわからなかった。
「まあまあ、シンジ。初対面なんだからよ」
マサさんが珍しく、少し慌てているように見えた。
「ざ、残酷…?えっと…」
「音が整列させられてた。君は音をあんなに整列させても、何も感じないのか?野蛮だ。野蛮にも程があるよ」
「え…」
もしかして私、初対面の人にディスられてる?しかも、かなり訳の分からない理論でもって。
「いや、別にそんな、音をいじめてるみたいな感覚はないですし、それが普通だと思いますよ…?」
おかしいのはあなたの方ですよ。そう言いかけたが、ぐっと堪えた。
「普通とか普通じゃないとか、そういうことじゃないんだよ。君がどう思うかだよ。君がやってることはれっきとした虐待だ」
「虐待…?」
マサさんの方を見ると、あのいつも穏やかな顔をしているマサさんが困り果てた顔で肩をすくめていた。
最初は自分が何を言われたのか理解できなかった。でも、そのうちみるみる怒りがわいてきた。こんな頭のおかしなやつに怒りの感情を抱くことすら意味がない気がしたけど、そのときの私は何故か我を忘れるぐらい頭に血が上っていた。
「…あなたの方が音楽を舐めてるんじゃないですか?お金払って聞いてもらってるお客さんの前で不協和音鳴らして、そんな自分に酔いしれてるわけでしょ?今も目つぶりながらコーラ飲んでましたね。自分が通だとでも思ってるのか知りませんけど、やってることは小学生レベルですよ」
「…」
彼が沈黙したので、私は続けた。
「私はね、アマチュアですけど、少なくともあなたよりもプロ意識があるんです。そりゃ、私の演奏は面白くないかもしれない。でもあなたみたいに、演奏を聞いて不快になって帰ったなんていうお客さんは今まで一人もいなかったですよ。まあ、それが当たり前なんですけどね。あなたが異常なんだから!」
一瞬、会場内が静まり返った。
「あの…ユミちゃん大丈夫かい?」
カズキさんが言った。
「…まあ、ちょっと色々あるみたいだけど、とりあえず一曲歌いなよ!歌ったら気持ちも晴れるかもしれないよ~?!」
あの破天荒なアカリさんが、明らかに動揺している。
「すみません、今日はもう帰ります」
そう言って、私は自分のかばんを手に取って出口に向かって歩き出した。
「もっと音を慈しむんだよ」
後ろから、また彼の声がした。
「何も僕みたいに、不協和音を鳴らせって言ってるんじゃない。僕は自分の奏でる音を不協和音だなんて思ったことはないけど。ただ君は特に、音に対する慈しみが足りないように感じるんだ。音を手段化してしまってるんだよ。過去に何があったのかわからないけど……自分でもわかってるんだろう?」
「…」
「僕は、君の声が好きなんだ。君の声に関しては、今まで聞いてきた誰よりも自由を感じるんだよ。だからなおさら君のしていることが許せないんだ。そんなに良いものを持ってるのに…」
自由を感じる声って、なんだよ。
「…帰ります」
そう言って私は、そそくさとLEGENDを後にした。