チューニング(1)

「あいつはな、チューニングをしないんだ」

彼の演奏にあっけにとられていた私の意識を現実に引き戻したのは、マサさんだった。

「チューニングを、しない」

「そうだ。あえて、な」

確かに彼は「チューニングが狂ってるけど気付けない」ようなタイプには思えなかった。綺麗な顔立ちをしたその青年の喋る言葉は、まるで日本語教師のように正確で丁寧なものだったし、服装もシュッとしていて自分によく合ったスタイルを熟知しているように思えた。何よりも、曲間のMCで喋る様子が彼の神経質さを十分に物語っていた。

にもかかわらず彼がはじめた演奏は、それらの印象をことごとく打ち砕くようなものだった。

彼は平然とした顔をしながらギターで不協和音を奏で、彼の歌う様はピッチやテンポという概念そのものを嬉々として破壊しているようにも見えた。

そして彼の歌をよく聞いてみると、なんと歌っているのはSMAPの「世界に一つだけの花」だった。まさかのカバーだった。

「オンリーワンにも程があるんじゃねえか」

私の隣にいたお客さんが、ポロっと呟いた。

「何なんだよ、この演奏は。こんなゴミみたいなライブを見に来たんじゃねえんだよ、金返せ!」

客の一人が怒鳴ったが、彼は何も聞こえていないように演奏を続ける。

「もういいわ、帰ろ」

他の客は呆れた顔をして、ライブ会場を後にした。

最初にいた客が三分の一程に減った頃、彼は演奏を終えたようだった。

「ありがとうございました」

今の演奏の様子が嘘のように、彼は姿勢をピシッと正して挨拶をした。

パチ、パチ、とまばらな拍手が起こる。

客席に戻った彼は、今しがた演奏を終えたばかりのギターを大事そうに膝の上に寝かせ、丁寧にクロスでネックを拭きはじめた。私は言葉を失い、その彼の姿をいつまでも眺め続けた。

 

「整列させたくないんだってさ、音を」

「整列」

「そう、整列」

ライブ後の静まり返ったライブハウスには、私とマサさんの声だけが響いていた。

マサさんは、慣れた手つきでグラスを拭いている。私はカウンターに頬をついて、マサさんの手の動きを目で追った。

「ルールが多すぎて、音が可哀そうだっつって」

「音が可哀そう」

「ユミさ、さっきからオウム返しするのやめてもらっていいかな」

「ああ、ごめんなさい」

私はマサさんの手を追うのをやめて、目をこすった。

今日彼のライブを見た瞬間から、自分がどこか不思議な世界の中に吸い込まれてしまったかのように感じていた。

「音に人格を感じてるってことですかね?」

「そうだなぁ…人格っていうか、生命って言ってたっけな」

「だいぶ変わってますね」

「かなり変わってるよ。だから面白いんだ」

「いや、でもそれはマサさんの感性ですよね?ライブしても今日みたいにお客さん帰らせちゃったら元も子もないですよ」

「それは客の感性が乏しいんだ」

「このコロナ時代にそんなことおっしゃってたら、店つぶれちゃいますよ」

「つぶれて結構」

お酒を飲みすぎてしまったのか、本音が出てしまった。マサさんは少し気分を損ねたのか、私の飲み終わったグラスを洗い始めた。

「とにかく、今日はお前にあいつの演奏を聞かせてやりたかったんだ。お前は真面目過ぎるんだよ」

「…それは重々承知していますよ」

ここ“Music Bar LEGEND”でライブするとき、マサさんには決まって「お前の演奏はつまらない」と言われてしまうのだった。はじめてそう言われたときは腹が立ったけど、経験を積んでいくほどに誰よりも自分が自分のつまらなさを自覚するようになった。オリジナル曲も作っているけど、どれも当たり障りない、どこかで聞いたことがあるような曲になってしまうのだ。

でも、だからといって、なんで彼なんだ。個性的で、オリジナリティがあって、素敵なミュージシャンなんていくらでもいるじゃないか。

私は、マサさんの思惑がよくわからなかった。

 

「音を整列させてる、音が可哀そう」

私は、天井を眺めながらふと声に出してみた。

あれから、彼の言ったことがいつまでも頭から離れないでいた。

「お姉ちゃん~、ご飯できたよ」

「はーい!」

リビングに行くと、テーブルの上には色とりどりのおかずたちが並べられていた。

「どうどう?今日お昼で学校終わったし、いつもより時間かけてみた」

「すごーい!めっちゃうまそう」

「どうぞめしあがれ~」

私は、妹と二人暮らしをしている。音大に通いながらピアニストを目指す妹を私が養ってあげている代わりに、家事が得意な妹には家のことを任せっきりにしている。

「いただきまーす!」

妹は自分で作った料理を黙々と食べ始めた。

「ねえ、クミはさ…ピアノ弾いてるときとかに“音が可哀そう”って思ったことある?」

「“音が可哀そう?”何それ、意味わかんない」

「だよね…」

「どういうこと?」

「いや、実はさ」

私は、先日マサさんから聞いた彼のことをそのまま妹に話した。

「へ~、不思議な人だね」

「でしょ?普通に変だよね」

「なんか、『俺にはチューニングなんてかんけーねー、魂で演奏するんだ!』とか、『目の前の客に癒しを与えることなんかのために、安易にチューニングを合わせるなんてことはしたくないんです!』みたいなさ、そういうのだったら他にもいそうだけど、『音が整列させられてて可哀そう』っていうのは…」

「理解が及ばないよね」

「そうそう」

私たちは吹き出してしまった。

「それでさ、マサさんは『ユミは演奏がつまらないから彼を見習え』とか言うんだよ?ありえないよ。どこを見習えって言うのよ」

「まあでも、お姉ちゃんがそんなに他人に対して関心持つのも珍しいんだからさ、その人と仲良くなってみたらいいじゃん」

「は〜?嫌だよ怖いじゃん。別に関心持ってないし」

「嘘だ、お姉ちゃんが自分じゃなくて他人の話しするの珍しいもん。てかマサさんが言うように、その人から学ぶことも案外あるかもよ?」

「いや、ないわ」

「明日実技試験あるし、私はもうお風呂入って寝るね~」

「えっもう食べたの?早いよ!」

そう言うと、妹はペロッと舌を出してスタスタとお風呂場へ行ってしまった。

私は一人になったリビングで、妹が行ったことをもう一度考えてみた。

いや、ないない。誰があんなやつに学ぶことがあるんだ。

私はブンブンと頭を振って、急いでご飯をかきこんだ。