私、ジロー卒業します(1)

第一話「絆か、命か」
 
カランコロン〜
「いらっしゃいませ!」
私は財布を取り出し、券売機に小銭を入れた。
「スタミナラーメン……売り切れか」
私は小さく舌打ちをした。
スタミナをつけたい時分にスタミナ無し、か。
既存のことわざと掛けて上手いこと言ったようで何も掛かってないし何も上手く言えていなかったため、山田クンに座布団を全部持っていかれたような気持ちになって更に肩を落とした。
私はしょうがなく醤油ラーメンのボタンを押した。
「麺の量は?」
「大盛りで」
「かしこまりました!」
いるか食堂。家の最寄り駅、改札を出て徒歩20秒。ここ数ヶ月毎日のように通っている、行きつけのラーメン店だ。
 
私はもともと、というか今も、ラーメン二郎の信者だ。通称、ジロリアン。16歳の頃から、かれこれ10年間崇拝している。
同じくジロリアンの母親に連れられて初めて二郎に行ったときは、それは衝撃を受けた。
まず、そのフォルムの美しさに目眩がした。
この雪のように真っ白なもやしの山……大げさではなく、富士山よりも美しいではないか。なぜこれが世界遺産になっていないのだ。しかし、どうやって食べるのだ?そもそもこの丼の中には麺が存在しているのか?もし存在していないとしたら、私は「もやし詐欺」という新しい種類の詐欺の第一被害者になるのではないか?
初めて二郎ラーメンを目にした私の頭の中には、そのあり得ない程の美しさに納得すらできずに、根も葉も無い疑惑が浮上していた。
そうしているうちに、母が「天地返しするよ〜」と言いながら、丼に両側から箸を突っ込んだ。と思った瞬間、たちまち私の前には、今まで気配すら見せなかった麺がしれっと立ち現れたのだ。なんという、遊び心のあるサプライズ!!!
私はその時点で既に感動の涙を流していた。そんな私を見て、母も泣いた。私は元々、何に対しても特に強い情熱を持つような子ではなかったのだが、娘がこんなにも何かに心を震わせている姿を見たのが初めてだったのだろう。
ただでさえ女性客は珍しい上、二人揃ってぼろぼろと涙を流しながら麺を貪る母娘という異様な光景に、周りの客と店員はドン引きしていた。
しかしそれはまだ序の口、一口食べた後は更に追い打ちをかけられた。その味を何かに例えるならまさに、スベり知らずの最強トリオ芸人。強いパンチを効かせた大ボケでコントを前に前に押し進めていく「麺」に、また違った角度から攻めていくハイセンスな「スープ」の中ボケが重なり、それらのやり取りを始終山の上から冷静に見下ろしつつ、最後には麓まで降りてきて優しく美しくまとめ上げてくれる、ツッコミ担当の「もやし」。もちろん客席では、ドカンドカンと爆笑が起こる。私もその観客の一人として、腹を抱えて笑い崩れた。それ以来、元々持ち合わせていた私の二郎気質が完全に開花し、今に至る。
二郎に通う過程で二郎仲間も増えていき、一緒に原付きに乗って全国の二郎店とインスパイア店を廻りながら日本列島を旅したり、潰れそうな二郎店があればチラシを作って街頭で配ったり、さすがに廃案になったが、一時期は二郎の素晴らしさを教えるためのスクール(完全ボランティア)を立ち上げようという動きさえあった。とにかく二郎のためにはどんな自己犠牲も厭わなかった。
しかしあることをきっかけに、私は二郎仲間たちからハブられ始めた。そのきっかけは、私が訳あって普通のラーメン店に入ってしまったことだった。
 
二郎系と普通のラーメンというものは、一見すると丼の中にスープと麺が入っているという構造が似ているので同じ食べ物として分類されがちであるが、味と言い、麺の太さと言い、何より普通のラーメンに比べて二郎ラーメンの場合、もやしが異常な比率を占めているということで、我々信者にとっては全く異なるものとして認識されている。
 
私はある出版社で、グルメ雑誌の『とりあえず全マシで❢』というコーナーの編集の仕事をしているのだが、その日は年に数回ほどある死ぬほど忙しい日であった。一瞬も手を休める暇がなく、昼食も取れないまま仕事が終わり終電に乗って帰った。
最寄り駅で降りると、いつも寄っている「ラーメン大」は当然閉まっているし、しかしあまりにもお腹が空いていたのでどこかに入りたい。といってもなかなか開いている店は見当たらず、駅周辺をふらついていた。
すると駅に隣接した一軒の店に、まだ光が灯っているではないか。
しめた!私は早歩きで向かっていった。
しかし看板を見ると、どうやらラーメン屋さんのようだ。私は店の前で足を止めた。
私はお腹を空かせながらも、頭の中で壮絶な葛藤を蹴り広げていた。ジロリアンである自分が普通のラーメンを食べるというのは、何を意味するか。一言で言うと、改宗だ。もしくは踏み絵だ。どちらにせよ、二郎神に対する侮辱だ。そして何よりも、今までずっと一緒に二郎を愛し続けてきた仲間に対する裏切り行為だ。後悔するのは目に見えている。しかしこの店以外に開いてる店は無い。空腹で家に帰らなければならない。買い物してないから冷蔵庫の中には調味料しか無い。断食とか無理。空腹で寝られへん。しかも明日普通に仕事。死ぬ。
私の目の前には、二つの選択肢。絆か、命か。
ぐ〜〜〜〜!!!
お腹が鳴った。限界だった。
「知るかボケぇぇえええ!!」
私は店に駆け込み、券売機に札を入れ、盲目的にボタンを押し、券が出てくるやいなやくるりと体を回し、店員に渡した。
「大盛り!!!」
「かしこまりました!!!」
数分後、私の前には塩ラーメンが提供され、その数分後には、丼がきれいに空っぽになった。
「美味かった……でも、やらかした……」
想像を超えてきたラーメンの美味さと、仲間を裏切ってしまった罪悪感が、天使と悪魔のように私の心を行ったり来たりさせた。
でも、バレてないし…いいよね。だって、お腹空いてたんだし、しょうがないよね。
私はとりあえず自分を必死で納得させて、店を出た。
すると目の前に、二郎仲間の一人がいた。
「あんた……そこ、入ったの?」
 
つづく